「職人」という言葉を聞くと、どんな姿を思い浮かべるでしょうか。
高い技術を持つ人。
長い経験を積んだ人。
妥協を許さない人。
どれも間違いではありません。
私も若い頃は、そんな姿に憧れていました。
だから毎日、お菓子を焼きました。
失敗を繰り返しながら、少しでも上手になりたいと思っていました。
けれど長い時間の中で、「職人」という言葉の意味は、少しずつ変わっていきました。
今の私にとって職人とは、特別な人のことではありません。
目の前の一つを、大切に積み重ねられる人。
その人こそが、職人なのだと思っています。
今日も材料を量る。
今日も生地を混ぜる。
今日も焼き色を見つめる。
昨日と同じように見える一日を、今日という新しい一日として受け止める。
その積み重ねに、職人という生き方があります。
派手さはありません。
近道もありません。
けれど、その静かな歩みは、少しずつ人を育ててくれます。
私がお菓子を育ててきたのではありません。
毎日のお菓子作りが、私を育ててくれました。
待つこと。
気づくこと。
受け入れること。
丁寧に続けること。
そうしたことは、すべて台所で教わりました。
だから私は、お菓子作りを仕事と呼ぶ前に、一つの営みだと思っています。
営みだからこそ、終わりがありません。
昨日より今日。
今日より明日。
少しずつ育ち続けていく喜びがあります。
これから先も、新しい技術は学ぶでしょう。
新しい出会いもあるでしょう。
でも、きっと変わらないものがあります。
目の前の一つを大切にすること。
その人に喜んでいただけるよう、心を込めること。
そして、お菓子から学ぶ姿勢を忘れないこと。
それが、三十年積み重ねて、私がたどり着いた職人という生き方です。
この手帖に綴ってきた言葉は、特別な技術書ではありません。
毎日お菓子を焼く中で、少しずつ教えてもらった小さな気づきの記録です。
もしこの中の一つでも、誰かの台所や暮らしへ、やさしく寄り添う言葉があったなら。
三十年間、お菓子を作り続けてきた時間は、それだけで十分に意味のあるものだったのだと思います。
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