30年のパティシエ手帖 〜まえがき〜

2026年07月16日 00:01
日本ハーブスイーツ協会

☆30年間、お菓子を作り続けて、私がたどり着いた暮らしの答え

三十年前、私はお菓子作りの世界へ入りました。
あの頃は、おいしいお菓子を作ることばかり考えていました。

もっと上手になりたい。

もっときれいに仕上げたい。

もっと喜んでいただきたい。

そんな思いで毎日を過ごしていたように思います。
もちろん、その気持ちは今でも変わりません。

お菓子は、おいしくあってほしい。
食べた方が笑顔になってくださる一品であってほしい。
その願いは、三十年前も、今も同じです。

けれど、三十年という時間を歩いてきて、一つだけ大きく変わったことがあります。
私は、お菓子そのものよりも、お菓子が生まれる時間のほうを好きになっていました。

〜お菓子は、完成した瞬間だけではありません〜

お菓子は、オーブンから取り出した瞬間に完成するように見えます。
でも、本当はもっと前から始まっています。

お気に入りのエプロンを結ぶこと。

棚からボウルを取り出すこと。

粉を量ること。

卵を割ること。

生地を混ぜること。

そんな何気ない動作の一つひとつが、お菓子作りなのだと、私は少しずつ思うようになりました。
急いでいる日は、生地もどこか慌ただしく感じます。
心が落ち着いている日は、不思議と手の動きまで穏やかになります。

お菓子は、作る人の時間まで映し出すものなのかもしれません。

〜三十年間、お客様が教えてくださったこと〜

私は、お客様から本当にたくさんのことを教えていただきました。
「おいしかったです。」

もちろん、その言葉は何度いただいても嬉しいものです。
でも、もっと心に残っている言葉があります。

「家族とゆっくり話ができました。」

「久しぶりに何もしない午後を過ごしました。」

「焼きたての香りで、なんだか心がほどけました。」

その言葉を聞くたびに、お菓子が届けているものは甘さだけではないのだと思うようになりました。

お菓子は、時間を届けている。

人と人との間に流れる空気を、少しだけやさしくしている。
そう考えるようになったのです。

〜ハーブとの出会い〜

三十年前の私は、ハーブスイーツを焼いている未来など想像もしていませんでした。
でも人生は、不思議なものです。

植物の香りと出会い、その静かな魅力に惹かれていきました。
ハーブは、自分を主張しません。
季節に合わせて芽吹き、風に揺れ、雨を受け入れます。

急ぐこともありません。

競うこともありません。

その姿を見ているうちに、私はお菓子作りだけではなく、自分自身の暮らし方まで教えられているような気持ちになりました。
だから今の私にとって、ハーブスイーツは新しいお菓子ではありません。
暮らしの中で見つけた、小さな答えなのです。

〜上手になることより、大切だったこと〜

若い頃は、失敗を怖がっていました。

焦がした日は落ち込みました。

思いどおりにならない日は、自分には才能がないのではないかと思ったこともあります。
でも三十年経った今は、その失敗があったからこそ、お客様の不安にも寄り添えるようになったのだと思います。
完璧なお菓子を作る人よりも、

「私も同じでした。」

と言える人でありたい。
そう思うようになりました。

上手になることは大切です。
でも、それ以上に大切なのは、また台所へ戻ってこられることでした。

〜暮らしは、小さな時間でできています〜

豊かな暮らしというと、特別な毎日を想像するかもしれません。
でも私は、そうは思いません。

朝、窓を開けること。

お気に入りのカップでお茶を飲むこと。

庭のハーブに水をあげること。

焼きたてのお菓子を囲んで、「おいしいね」と笑い合うこと。

そんな小さな時間が積み重なって、一つの暮らしになっていきます。
一枚のクッキーで人生は変わりません。
でも、一枚のクッキーが今日という一日を少し穏やかにすることはあります。
私は、その積み重ねを信じています。

〜なぜ、私は今も焼き続けるのでしょうか〜

ときどき、自分に問いかけます。

「なぜ、今もお菓子を焼いているのだろう。」

もう三十年です。
技術を証明するためではありません。
誰かと競うためでもありません。

私が焼き続ける理由は、とても静かなものです。
台所や厨房へ立つと、心が落ち着くから。

オーブンから漂う香りが好きだから。
家族とお茶を飲む時間が好きだから。
そして、その穏やかな時間を、誰かにも届けられたら嬉しいと思うからです。

〜これからも育てていきたいもの〜

私は、お菓子を作っているようでいて、本当に育てたかったものは別にあったのかもしれません。

家族との時間。

季節を感じる心。

慌ただしい毎日の中に生まれる小さな余白。

そして、暮らしを大切にしようと思える気持ち。
お菓子は、そのための入り口でした。
ハーブは、その歩みをそっと支えてくれる存在でした。
三十年間、お菓子を作り続けてきて、私がたどり着いた答えは、とてもシンプルです。

暮らしは、大きな出来事で豊かになるのではありません。
今日という一日を、少しだけ丁寧に過ごそうと思えること。

その積み重ねが、人生を静かに育てていくのだと思います。

だから今日も私は、いつもの厨房へ立ちます。
ボウルを取り出し、粉を量り、オーブンの扉を静かに閉めます。
焼き上がる香りを待ちながら、今日という一日が、誰かにとっても穏やかな時間になりますようにと願っています。

それが、三十年間お菓子を作り続けてきた私が、ようやくたどり着いた、暮らしの答えです。


日本ハーブスイーツ協会
白水 諭

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