三十年という時間、お菓子を作り続けてきました。
そう書くと、とても長い時間のように感じます。
けれど私にとって、その年月は、特別な毎日の積み重ねではありませんでした。
朝、厨房へ立ち、材料を量り、生地を混ぜ、オーブンへ入れる。
焼き上がる香りに耳を澄ませ、焼き色を見つめ、お菓子を味わう。
そんな何気ない一日を、ただ静かに積み重ねてきただけなのです。
若い頃は、技術を身につけたいと思っていました。
もっとおいしく。
もっと美しく。
もっと上手に。
そんな思いで、お菓子と向き合っていました。
もちろん、その時間は私にとって大切な財産です。
ですが、これまでの時間を振り返ってみると、一番大きな贈りものは技術ではありませんでした。
お菓子が、暮らしを教えてくれたことです。
焦らなくてもいいこと。
待つ時間にも意味があること。
小さな積み重ねは、決して裏切らないこと。
季節とともに歩むこと。
目の前の一つを丁寧に大切にすること。
それらは、本で学んだことではありません。
毎日のお菓子作りの中で、少しずつ教えてもらったことばかりです。
だから、この手帖は技術書ではありません。
上手に作るためだけの本でもありません。
三十年間、お菓子と向き合う中で見つけた、小さな気づきを綴った記録です。
読み進めていただく順番も、決まりはありません。
気になった題名から開いていただいても構いません。
今日の気分に合う一編だけ読んでいただいても十分です。
きっと、その日の暮らしに寄り添う言葉が、それぞれ違うからです。
お菓子には、不思議な力があります。
食べたら終わりではありません。
焼き上がる香り。
厨房に流れる静かな時間。
誰かと囲む食卓。
そうした時間まで含めて、お菓子なのだと私は思っています。
だから、この手帖に書かれているのは、お菓子の話でありながら、暮らしの話でもあります。
仕事の話でもあり、人との向き合い方の話でもあります。
そして、自分自身と静かに向き合う時間についてのお話でもあります。
もし、お菓子作りが初めての方でしたら、どうぞ肩の力を抜いて読んでください。
もし、長くお菓子を作ってこられた方でしたら、「そんなこともあるね」と笑いながらページをめくっていただけたらうれしく思います。
正解をお伝えしたいわけではありません。
「私はこんなことを、お菓子から教えてもらいました。」
その小さなお便りを、一編ずつお届けしたいだけなのです。
お菓子作りは、完成させることだけが目的ではありません。
厨房へ立つ時間も、香りを楽しむ時間も、待つ時間も、誰かと分け合う時間も、そのすべてが、お菓子作りなのだと思っています。
そして、その積み重ねは、やがて暮らしを育て、人を育て、静かな文化になっていきます。
この「三十年のパティシエ手帖」が、皆さまにとって、お菓子を上手に作るためだけではなく、毎日の暮らしを少しだけ愛おしく感じるきっかけになれたなら。
お菓子とともに歩んできた私にとって、それ以上にうれしいことはありません。
どうぞ、お茶を一杯ご用意いただき、気になる一編から、ゆっくりとページをめくってみてください。
この手帖が、皆さまの台所と暮らしへ、やさしく寄り添う存在になれますように。
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